河瀬直美監督「萌の朱雀」のワンシーンと
実物の風鈴を紹介 |
3. 「そのものになる」ことのデザイン
3-1. 風鈴
「Senseware」がどういうものか、理解してもらえたでしょうか。こうした「Senseware」の古典的な一例が“風鈴”です。英語で言うWind bellですね。
“風鈴”という装置のインターフェイスデザインには、一考の価値がある。風鈴の面白さは、それが、音色の美しさそのものを楽しむための楽器ではない点にあります。その傾向は日本の風鈴に特に顕著で、楽器的な性質が、海外のWind-bellよりも低いように思われます。
風鈴が表現しているのは、音そのものではなく、「風が吹いている」という事実です。庭に面した軒先に吊された風鈴は、暑い夏の日、軒下を流れる風の存在を伝えます。この時、部屋の奥にいる人は、「ああ、風が吹いている」と、イメージの中で涼を取る。そして同時に、数秒後には部屋の奥へ到達するその風を待ち受け、無意識に肌の感度が少し上がる。風鈴とは、五感とイマジネーションを駆使して外界の情報を享受させる、複合的な「Senseware」の好例なのです。
私は“風鈴”という「Senseware」を生み出した昔の人を、尊敬してやみません。冒頭で私は、「デザインとは、インターフェイスすることであって、インターフェイスをつくることではない」と言いました。そして、「しかしそのインターフェイスに、人を拘束してしまうようなデザインが多い」と指摘しました。この点において、“風鈴”のさり気ないデザインは、群を抜いてよく出来ています。
モダンデザインのパイオニアの一人に、イタリアのアッキレ・カスティリオーニがいます。以前彼は、こんなことを言っていました。「レストランに行くと、テーブルに置いてあるデキャンタ。あれは、ゆるやかなカーブを描いていますね。しかし、ワインをグラスに注ぐ人が、そのカーブに気付いてしまうようなら、そのデザインは失敗なのです」。
私はインターフェイスデザインにおいても、カスティリオーニの意見に賛成です。インタラクションデザインが究極的に目指す地点は、「そのものになる」という全体的な経験のデザインでしょう。私が考えるインラクティビティとは、ユーザが何か働きかけると、何か別のイベントが起こるといったことではありません。「そのものになる」という経験です。
たとえばそれは、フォークのデザインではなく、「食べる」という経験の全体をデザインすることに等しい。「『食べるになる』、をデザインする」とでも言えば良いでしょうか。「Senseware」が目的としている「感じること」も、まさにその全体性を必要としています。したがって私たちは、「Senseware」でインタラクションデザインを極めなければならない。しかし、これがなかなか難しい。
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