水棲感覚/水のコスモロジー 竹村真一
(文化人類学者・sensorium プロデューサー)

"Sensitive Chaos/Aquatic Sense"

 私たちは不思議な時代に生きている。
 あたりまえの物事、日常のありふれた現象が、とても変わって見えてきたり、私たちが常識的に抱いている「生命」や「人間」というもののイメージが根本からくつがえろうとしている。
 その象徴的なものの一つが「水」だ。

氷が水に浮く不思議

 たとえば"氷が水に浮く"という、ごく当たり前の現象――。
 小学校で誰でも習う、何の面白味もなさそうに感じられる事がらだ。
 しかし、これすら実は地球の普通の「常識」からすればとんでもない、常軌を逸した振舞いなのだ。
 なぜなら通常どんな物質でも、液体から固体になると当然「密度」が高まり、その分「比重」も増す――そうすると、同じ物質の液体の中にその固体を入れれば、固体のほうが沈んであたりまえ。
 ところが、「水」の場合は逆に固体(氷)になると容積が増し(それで冬に水道管が破裂したりする)、密度が低下した分、比重が軽くなって水(液体)のなかで浮いてしまう。
 これは地球上の物質としては、極めて「異常」なことなのだ。

 一番ありふれた存在である「水」が、実はこの地球上で最もかわった「異常」な存在なのだということ――。
 だが、仮にこの異常な性質がなかったとしたらどうだろう?
 氷が水に浮くからこそ、海や湖は表面だけが凍りその下は比較的温度が一定に保たれた、生命にとって好適な空間が用意される。逆にこの「異常」な性質がなかったら、海は底から凍りはじめ、これでは地球上の水はすべて氷となって、生命が誕生する余地はなかったはずなのだ。
 その意味では、生命科学者のL.ワトソンらがかねてから強調するように、水の「異常」な性質こそが、皮肉にもこの惑星の生命系の「基本」条件となったわけだ。

遊牧民的(ノマディック)な水分子−−水は単なる"H2O"ではない!

 実はこの水の異常な性格は、そのミクロな分子構造的特徴――つまり、酸素原子と水素原子が104.5度という不安定な角度で結合しているという事実に関係しているらしい。
 だが、この不安定さゆえに、水はつねに分子構造レベルでそのありさまを変化させている。
 つまり、水分子同士が互いに結合して巨大な"H
2O連鎖"(高分子=クラスター)になろうとする傾向と、それがまた分裂・散逸してゆく動きと微妙なせめぎ合いの内に「水」はあるのだ。

 だから、極端にいえば一瞬ごとに「水」は別の物質に変わっている――。
 厳密に言えば、この地球球上には単一の「水」(H
2O)という物質があるのでなく、実は多様な物質へと千変万化するノマディックな粒子=波動の流動体が、「水」という仮の名前で呼ばれているだけなのだ。
 しかも、驚くべきことに、「水」はその時々の分子構造的な状態に応じて同じ水でもまったく性質が変わってしまったりするという。

"Sensitive"な水/水への"SENSE"

 例えば水のクラスター(分子集合形態)が小さくなると生命活性作用が強まったり、汚染物質の分解能が高まったりといった具合で、これなどは当然、医療や農業、環境対策などの分野で大きな成果が期待されている。
 実際、薬学分野の研究者たちも、この"ただの水"の薬理学的効能を真剣に受け止めつつあるようで、なかには「漢方薬を水に溶いて呑むのは、呑みやすくするための手段として水を使ったのではなく、実際には"水を変えるために"漢方薬の方を手段として使っていたのだ」と解釈する向きもある。

 また、水は(このフレキシブルな分子構造が特定の電磁気的な波動を刻印する形で)「場」を"感受"し、その特異的な「情報」を"記憶"し、それを別の場所や媒体へと"伝達"するということを実証した研究もあり、鈍重な物質というよりも生ける有機的存在、あるいは情報メディア的な媒質としてのイメージがさらに強くなってくる。

 こうなると、一口に「水」といっても、単に"H
2O"として十把ひとからげに扱うわけにはいかなくなる。
 普段とくに何の関心も持たずに接している「水」というありふれた存在が、にわかに摩訶不思議な、尽くせぬ興味の対象として浮かび上がってくる。

うつろいゆく"Sensitive"な水が、私達の水に対する"SENSE"を変える

 "水は地球の感覚器"(T.シュベンク)

 こうした感受性/感応性(SENSE)を持った「情報的媒質」としての水を、ドイツの水理学者テオドール・シュベンクは、いみじくも"sensitive chaos" (=感受性をもった混沌としての水)と表現している。
 ゲーテやシュタイナー等のロマン主義的知性の流れを汲む学者としての彼は、何よりもこの世界の内奥に生命=情報的な本質を観る。
 そして、この大地の表面をおおう「水」という界面(インターフェイス)が、地球という生命体にとっての一種の「感覚器」として、月や天体の聲を聴き、さまざまな力(引力/重力/電磁気力……)に反応し、諸々の「情報」をみずからに刻印して姿を変えるのだと語る。

 とはいえ、それは必ずしも新しい観点というわけではないのかもしれない。
 実際、そうした"感覚器"あるいは"センサー"としての水の本質を、人類は多様なかたちで認識してきた形跡がある。

 例えば、月の満ち欠けに応じて水の性質が変わるとする民俗信仰−−。
 だから、満月の日には(異常なふるまいをするから)水を採らない、あるいは逆にそれだからこそ、(ヒンドゥー教や仏教の文脈で)満月の夜にわざわざ月の光にあてた水を奉納するという「化水供」(けすいく)の儀礼などが行なわれてきたのだろう。

 また、そうした月や天体との関係によって水面の様相が微妙に変化し、川の流れかたも大きく変わる。
 例えば満月時には水が中央に集められるように水面が盛り上がるのに対し、新月では逆に水が川べりに拡がる傾向を見せる−−だから、そうしたことを知悉していた林業者は、昔から材木が川縁に引っ掛からずに、水流の中央に集まってスムーズに流れる満月の時に材木を流すようにしていたという。

 水はつねに「環境」の変化に感応しつつ、自らの姿を変える−−その動きに共振/共生するだけの"SENSE"を、もともと人間はもっていたのだ。

「水」のコミュニケーション・ネットワーク

 そもそも、私たちは「水の惑星」に棲み、私たち自身ひとつの小さな「水の小宇宙」として生きている。
 私たちは"小さな海のパッケージ"である子宮という水棲環境で人生の初期を過し、いまも私たちの身体はその70%が水で構成され、たとえ静止していても、その内部では様々な物質や情報が「つねに流れ渦巻く存在」として生きている。

 私たちの内部にも、月の影響を受けた潮の満ち引きが見えない形で存在し、海流や河の流れや雲の動きといったこの惑星の大きな「水循環」のなかの一結節(プロセス)として、私たち一人ひとりの生命/生活(LIFE)はある。

 私たち人間が"歩く水袋"だとしたら、樹木は"立ち上がった水"であり、森のなかで私たちが木々と感応しあうとしたら、それは私たちの体内の水と木々のなかを流れる水とのあいだの、眼に見えないひそやかな繋がり(コミュニケーション)がベースになっているのかもしれない。

 そうやって私たちは水で構成されていると同時に、水を介してこの世界のあらゆるものと繋がってもいるのだ。たとえ近くに樹がなかったとしても、私たちの家の水道の蛇口は何処かの「森」につながっており、トイレで流した汚水も何キロにもわたる鈍感な「腸の延長」を通って海に流れ込んで、その生態系を育んでもいる。

 私たちはそうした事実を普段ほとんど意識することなく暮らしているが、じつは水を考えることは私たち自身を考えること−−「人間」と「生命」と、その地球的な関わりあい=ホロニックな繋がりの感覚("SENSE")を考える事でもあるのだ。

"水の神ナーガ"〜環太平洋水棲文化圏

 じつは日本やアジアの多くの文化は、こうした「水」との密接なつながり、水を基盤とした生命観/生活感覚を、その核心にはっきりと抱いていた。
 たとえば、「水の神ナーガ」(龍/蛇)に象徴される水への信仰/親水的な生命感覚は、インドから東南アジア・中国・日本と連綿と続いている。
 この水棲文化史的ヴィジョンは、特に"海の民"の視点から、「宇宙船地球号」を発想したバックミンスター・フラーとタイの建築家スメット・ジュムサイの共著『水の神ナーガ』に美しく描かれている。
 また、こうした精神は、新年の「若水とり」の再生儀礼、東アジアの治水/風水関連の技術思想などにも表われている。

 また、水の都「江戸」では"親水的"なライフスタイルが基本に置かれていたことの反映として、橋のデザインは表の欄干などより裏(川の側から見た景観)のデザインの方が凝っていた例も多かったという。
 つまり、江戸では陸上生活者にとっての"渡る橋"である以上に、水上生活者の視点からの"くぐる橋"であったわけだ!

 さらに"一衣帯水"という言葉の示すとおり、「水」には人と人との「絆」(コミュニケーション)を媒介する特権的なメディアとしての側面があり、そうした社会的情報媒体(ソーシャルウェア)として水を重視する文化的感性は、例えば「風呂屋」や「井戸端」「呑み屋」「茶室」など、水に関わる場所が社交や遊興・密談のための特権的な情報空間として位置づけられてきたということにも表われている。

「還水革命」−−−"ホモ・デルフィナス"の視点

 こうした「水」への"SENSE"は、現代の私たちには一見遠いものに感じられるかもしれない。
 だが、いま「水」と人間との新しい関係がはじまる−−その兆しが少しずつ、しかし確実に見えかけてきているように私には感じられる。
 それは例えば「ダイビング」や「水中出産」、あるいはイルカ等の水棲哺乳類との「異種間コミュニケーション」といった幾分特殊な分野を中心に始まっているとはいえ、やがて大きな文明史的うねりへと拡大してゆくポテンシャルを十分に秘め持っている。

 たとえば著名なダイバーであるジャック・マイヨールは、イルカと共に泳ぎ、イルカから水棲的な"SENSE"(身体の使い方、呼吸のしかた、浮遊感覚、意識のありかた等)を体感的/協働的に教わることを通じて、自分の内部に潜在していた−−人間として当たり前にもっていたものの、子宮から出て以来ずっと「解発」せずにきたという意味での−−「水棲記憶」「水棲本能」を回復(「解発」)し、深度100メートル以上の閉息潜水記録を樹立するとともに、"水棲生物としての人間"の新たな可能性を身をもって示した。

 人々はこれを単純に"スーパーマン"として捉えたが、それが決して「例外的」でも「異常」な事でもなく、むしろすべての人間に潜在する「水棲本能」の回復にすぎないのだということが、たとえば「水中出産」によって生まれ、その後も水とのコンタクトを失わせずに育てられた子供たちによって次第に証明されつつある。
 そうした子供たちは、水のなかで何分間も平気で(閉息状態で)イルカのように自由に遊んだり浮遊状態を楽しんだりしているのだ。
 マイヨールはこうした事実も踏まえて、人間は基本的に"ホモ・デルフィナス"−−つまり「イルカ人間」とでも言うように、もともと水棲本能をもった両棲類的な存在なのだと語っている。

 私たちは彼のこのコンセプトを、例外的な「新人類」の誕生を意味する言葉としてでなく、私たち人類があらためて「ポストモダン文明」のなかで、より柔軟で相互的な"水への文化的/文明的SENSE"を再構築してゆくプロセスの始まりを告げる、一つの象徴的なライフ(生命)スタイル革命宣言として捉え返したいと思う。


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