"時感"のインターフェイス 竹村真一
(文化人類学者・sensorium プロデューサー)

"Rabbit's Time/Turtle's Time"

 高速度でまわっている扇風機の羽根は、透明でみえない。リズムが合わないものは、 その存在を認識できない。
 私たちのリズムが遅すぎて(あるいは速すぎて)出会えない沢山の存在と、知らない 間にすれ違いながら―――しかし密かにふれあいながら、私たちは生きている。

 逆に、目にみえる物のなかにも、隠された多様な「時間」とリズムがある。
 たとえば、同じく高速で回転するコマは止まってみえる。
 とすれば、私たちの身のまわりの静止しているモノたちも、そして黙って坐って考え ている私たち自身も、もしかすると高速で回転し続けているのかもしれないのだ。

 私たちの世界認識とコミュニケーションの基層には、つねに「リズム」の問題、「時間感覚」の差異と同期性の問題が隠れている。
 大切なのは、"時感のインターフェイス"をどうデザインしうるかということだ。

ユトリロの樹、山水にひそむ龍

 実際、私たちの時間感覚の尺度が少し変化するだけで、日常の現実のさまざまな光 がまったく様相を異にするようなことも沢山ある。
 たとえば、樹木や菌類の成長過程を"微速度撮影"してみよう−−−。

 すると、樹は螺旋を描きつつ上昇する規則的な回転運動、大地から天に向かってほと ばしり出る一本のエネルギーの渦まく「放射」となる。
 キノコは(まさにあの原爆のキノコ雲の映像そのままに)モコモコと爆発・増殖する 「雲」の運動だ。
 つる植物などは、まるで自分の寄り添う物体を撫でる手のひらのように、葉で壁や柱にやさしく触わるような動きをしながら伸びてゆくのがリアルに見えるのだ。

 思えば、こうした現代の映像魔術などなくとも、優れた芸術家や科学者は、このように「かたち」をその「なりたち」において、「実体」を「プロセス」として捉える感性 で世界の本質を看破してきたといえるかもしれない。

 たとえば、ユトリロの絵などをみると、画家のなかで街路の樹木は幾筋もの"大地からの放射"として認識されていたのだ、ということがよく分かる。
 中国や日本の「山水画」や「書」の伝統は、眼にみえる風や字形の奥に、不可視の 「気」の運動と形象を観てとることを本質とする。画家は「山」や「谷」を描くのでは なく、その配置や流れの全体を通じて顕れている「龍」のような生命エネルギーの運動 を体感し表現してゆくのだ。

 あるいは、私たち自身にあまねく潜在する"渦"―――「耳」や「つむじ」や体毛の 生えかたや「指紋」に、私たちの身体がみずからを形成してきた全過程の記憶を観てと ることができるだろうか? 「耳」と胎児が相似的に渦巻きながら生成してくるプロセス をいきいきと思い描けるだろうか?
 実は、それこそレオナルド・ダ・ビンチやゲーテや解剖学者の三木成夫が、科学的知性と芸術的感性を統合させつつ展開しようとした「かたち」の自然学の本質だった。

カメの時間/ウサギの時間

 武術や気功やダンスなど、諸文化の心身調律技法の伝統において「呼吸」や「動き」 のリズムが重視されてきたのも、結局この世界とのコミュニケーションや自己の生命活 動のありようが、この"時感のインターフェイス"の拡張に大きく関わっているという 認識に基づいている。

 "カメの呼吸"をまね、深く長いリズムで息をする(=いきる)ことを志向する東洋 の体育は、「カメ」よりも「ウサギ」のように早く走れることに価値をおく西洋近代の 体育思想にまったく逆行する。
 だが、「カメ」のリズムでしか見えない世界がある。経験できない次元がある。

 もはや「近代工業社会」のように強い軍隊や工場労働者だけを必要とするわけではないのだから、むしろ「ウサギ」にも「カメ」にもなれる自由の拡張に主眼をおいた体育思想があらためて評価されてもいいはずだ。
 デューク大学でシュミット-ニールセンに学んだ本川達雄氏の『ゾウの時間/ネズミの時間』には、こうした呼吸や心拍のリズムと生物学的な「時間」との関わりが興味深く語られている。
 ゾウとネズミは身体の大きさも寿命すさもまったく違うが、面白いことに(実はすべての哺乳類で)一生の呼吸数や心拍数が同じだというのだ。つまり、ネズミのように 早く呼吸・拍動して生き急ぐ動物は寿命も短く、ゾウのようにゆっくりやれば「時間」も伸びる、というわけだ。

 「時間」は時計のように一定でもなければ、すべての生き物に量的な意味で)平等に与えられているわけでもない−−−。生物学的にみた「時間経験」の構造が、このよ うに生物によって相対的だということが、あらためて実証されつつある。

空間の編制技術から時間の編制技術へ

 とはいえ、ゆっくりで寿命が長ければよい、というものではないだろう。
 "生きられる時間"の質、時間経験も実は外から「量的」に計れるものではない。 ましてや寿命を伸ばすために呼吸をゆっくりするという発想では、本末転倒だ。

 むしろ、ゾウとネズミの時間の相対性を認識する自由、「ウサギ」にも「カメ」にもなれる自由を人間がもっていることの意味を、私たちはあらためて考えてみなくてはならない。
 それは、言い換えれば「時感」のインターフェイスをさまざまに拡張しつつ、この世界とのコミュニケーションの構造を多層化してゆく可能性だ。

 みずからの時間感覚を伸縮自在に調節して、この世界のさまざまな現象にさまざまなレイヤーで同調(attune)してゆく感性技術――まさに"時感のインターフェイス"”の デザインが、諸文化の"エコ・エステティックス"の核心にはあった。

 そしていま、さまざまなAV感覚拡張技術とそのデジタル統合の可能性を、そうした時間経験の感性文化資源にどのように接続していきうるかが問われている。

 「近代」の情報技術が(博物館/博覧会であれ映画・テレビであれ)基本的に世界に散在するものを集めてパッケージ化する"空間の編制技術"であったとすれば、これからの技術的なフロンティアは間違いなく"時間の編制技術"(奥出直人氏)に関わる次 元にあるだろう。
 だが、それが「時間」に関する私たちのSENSEと経験の振幅をどれだけ深化・拡張しうるのか?――それはトータルな文化デザインの問題なのだ。