神戸から世界へ 津村喬(気功家・評論家)

■日本ではすでに阪神大震災の話は“トレンディ"ではない。すでに過去のことであり、すんでしまったこと、頭の片隅に記憶にとどめればいいことになってしまっている。1年目のメモリアルデーを迎えてまたひとしきりマスコミを賑わせることだろうが、自分には関係ないと思いたがっている人が多い。
日本列島のどこにいても大きな地震の直撃をくらう可能性はある。だからこそ逆に、神戸神戸と騒ぐなよ、という気持ちがあるのだろうか。それとも、オウムの事件で頭をいっぱいにしてまた「もうたくさんだ」となっているのと同様に、それはただ情報として消費され、早くほかの新しい話題に移りたいと思っているだけなのだろうか。
 テレビの取材対象としての阪神大震災は、東京の人々にとって、サラエボとかソマリアとおなじように遠い国の出来事だった。助けを求める人たちをヘリコプターが写し、被災した人たちは自分たちがどんなふうに映されているか見るどころではなかった。むろん多くの人が同胞の悲劇に同情して、行動を起こした。3月末までに115万人のボランティアが阪神地区に入った。1700億円の義援金が集まった。日本での「ボランティア元年」といわれ、なかなか社会に根づくことのなかったNGOが始めて社会的な地位を獲得したともいわれた。しかしいま継続して活動しているのはその千分の1以下、いや1万分の1といってもオーバーではないだろう。義援金は家が全壊した人に10万円ずつ配られて、あとの1000億は凍結されてしまった。どう配っても「不公平」といわれるのを恐れて、行政が判断を停止してしまったのである。
 義援金のかなりの部分が被災者に手渡っていないと聞くと、やっと人は関心を示し始める。「気持ちだけ」にせよなにがしかの金を出して、一応それで関わりをすませた気になっていたのに、すんでいなかったことがわかるからである。

■まだ2000人以上がテントに住んだり、学校や公会堂のホールに避難したまま段ボールで身を包んで暮らしている。そこから仕事に出かけている者もいるが、多くは仕事を失ったために身動きができない。その23%は震災以来まったくの無収入が続いている。本来そのような家庭には生活保護が与えられるが、市は「住所不定」を理由に保護を拒否している。4万人余りが市の提供した仮設住宅に住んでいるが、その住環境は極めて悪い。外面的にもそれは収容所をイメージさせるし、なんであれ商売が禁じられているので、その中で稼ぐことができないばかりか、お年寄りが何キロも歩いて日常の食品などを買いにいかなければならない。何よりも大きな問題は、老人や障害者を優先するというタテマエのもとで、一人一人がもともとのコミュニティから引き離されてつれてこられたことによって、周囲と何の交渉もない孤独な居住者が増えたことである。ひとりで病死して長いこと発見されないケースを孤独死とよんでいるが、すでに30人を超す高齢者がこのようにして死んだ。またそれと同じかやや多いくらいの者が自殺した。自分の家の残った者も、親戚の家にのがれた者も、けっして楽な暮らしをしているわけではない。誰の目から見ても、神戸市はそれにたいして適切な対応をとることに失敗している。市が復興の基礎になるコミュニティを解体してしまったのは奇妙なことだった。おお急ぎでこわれたビルを片付け、いくつか新しいビルを建てて、「復興は進んだ」と胸をはっているが、もとの暮らしに戻れない人が市民の大部分を占めているのを心配しているようすはない。市にとっては建物の復旧だけが関心のあることなのである。市は10年後に6800億円の赤字になるので、福祉関連の出費を全面的に縮小すると発表している。それでいて、神戸沖に−−関西空港の真向かいにそれに対抗して−−新しい空港を作る方針は撤回していない。

■被災者にとっては、1995年1月17日だけが震災なのではなかった。1年目でいえば、「365日の震災」だったのである。それが一番、体験しなかった人には伝わりにくいことでもある。
 水もガスも出ない日々は地域によって1か月から2か月続いた。春には8万のビルを解体する粉塵で空気はコンクリート溶液のようになった。発ガン性のアスベストが大気中に多量にただよい、誰もがマスクをして歩いたが、やがて誰もがあきらめてしなくなった。6月の雨期には山崩れが警告されて、山裾の人々は改めて避難しなければならなかった。神戸は山と海の狭い中間地域にあるのだ。テントに住む人たちはほとんど水中生活を余儀なくされた。夏にはテントは40度を越した。仮設住宅にはクーラーが配られたが、電気料金を払う余裕のない人々はクーラーを使わず、脱水による死者や重病人が相次いだ。秋には震災による失業手当がいっせいに切れた。市も県も失業対策事業を起こそうとしなかった。企業は{ランティア活動A避難所や仮設に住む者やその子弟の新卒業者の就職をすべて拒否した。冬になると、ストーブの禁じられている仮設での、あるいはストーブを燃しても寒いテントでの凍死が心配されている。こんなふうにして1年が過ぎたのだ。

■それはすんでいないというより、始まったばかりなのかもしれない。この仮設住宅の高齢者率40%というのは、20年後の日本の予想される数字である。日本全体の予測される姿を神戸が先取りしてみせてくれているのかも知れない。もし神戸がこのままでしかないとすれば、20年後からの日本全体が解決の道を持たないのかも知れない。
 11月にオーストラリアのアボリジニの何人かが神戸を訪れた。彼らは淡路の震源地に近い石上神社で大地の癒しの儀式をした。淡路は日本神話の中で神が日本列島を作ったとき最初に着手した島とされ、その男性神の名前をとったイザナギ神宮も震源地のすぐ近くにある。アボリジニの人々は自分たちのi遠の仮住まいbした。白人たちによって自分の住む場所を追われ、居留地に収容されて長い時間がたった。家族コミュニティが保存されているだけ神戸の仮設住宅よりはよかった。だが、孤独と無為の中でたくさんの人が酒に溺れた。神戸の仮設住宅でもアルコール依存は激増している。先住民族は仮設の大先輩なのだとわかった。
これまで極めて低料金で古い時代の集合住宅に住んでいた人たちの家が壊れ、焼け、そのあとにもともとの住民に相談もなく、豪華な高層マンションが作られようとしている。ということは、もともとの住民は解散せよということである。してみると、仮設に住む以外の神戸市民はやがて市によって解散させられ、あとにほかの地区の金のある人々が入ってきて、仮設住宅は神戸先住民の居留地として残されるのかも知れない。

■地震が藤にされてしまうというのは、このまさに渦中にいる人々を存在しないものとみなすことを意味する。もうひとつ、この地震のもった意味というもの、みんなが椒に感じたことが、まだまだ十分に記録されていないし、論議されていないことがある。その面でも、阪神大震災は藤になっていない。

■神戸市民はおとなしい。略奪のひとつもなかった。火事場泥棒はすべて外部からの者だった。行政に対してもおとなしかった。国連のハビタット(居住委員会)調査団は、コミュニティを解体して仮設に住まわせる時、「軍隊を使ったのか?」と尋ねた。「こんな重大な権利剥奪を軍隊なしにやれる地域があるとは」とあきれていた。
 中には市役所の前に座りこんで抗議の声を挙げている者もいる。市民の声の一部を代弁してはいるが、あまり市民に人気はない。というのも、「市は市で一生懸命やっているが、少し思想が違うので、だんだんわからせてやらないといけない」というのが多くの人の思いで、誰か悪者を作っても解決しないと考えているからだ。この物分かりのよさが命取りかもしれない。あるいは新しい質の自治への希望というべきだろうか。

■一番の問題点は、復興政策の当事者が、地震から何も学ばなかったことである。彼らは「防災」を質の問題としてでなく、量の問題としてとらえ、建物の強度を上げることが唯一の解決だと考えている。だが、被災者はもっと別のことを学んだ。
 「地球を相手に震度を設定して、これが限界と言っても思い通りにはなってくれない。防災は原理的にありえない。地震もあるのが地球に暮らすということだ。減災ということ、災害後にいかに人災を減らすかが問題だ」(ある地震学者)
 「考えてみたら地震に殺された人は一人もいない。みんな自分が苦労して買った家につぶされたり、テレビや冷蔵庫につぶされた。自分の欲望が物質になったものに殺されたのだ」(自分の家族の死体を3人家の下から掘り出した知人)
 マグニチュード8でも、8・5でもだいじょうぶな都市とはどんなものか。鉄とコンクリートだけにして、いっそ人間が住まないほうがいいのではないか。こう問い返すことをしない計画家たちが復興を進めているところから、さまざまな残酷な非喜劇が生まれてくる。

■地震に共感した人たちがいる。一人や二人ではなかった。ひねくれたインテリだけでなく、ふだんそんなことをまったく言いそうにない堅実な生活者の口から「ざまみろ、バチが当たった」という言葉を聞いた。自分の家を失ったり、家族を失った人でさえ、この地震を「神の怒り」ととらえた人は少なくなかった。何に対する怒りかというと、自然の風水を無視して山を削って海を埋立て、巨大な橋や建造物を建てることに熱中してきた神戸市のやりかたに対してだった。
 「この地震は明石大橋の杭を打ち込んだために引き起こされたものではない」と市が学者たちを集めて記者会見をさせなければならないほど、多くの人がそう思っていた。明石大橋は出来上がれば日本最大の橋になる建造中のもので、淡路島と神戸を結んでおり、その淡路側のすぐ近くが震源地になった。神戸市はとりあえず六甲の山を繰り抜いてオペラハウスを作る計画−−音楽家たちは首をひねり、建設業者だけが熱心だった−−の無期延期を発表した。

■おとなしい神戸市民は行政の開発政策に公然とノーを言ったことがなかった。共産党を含めてほぼ全政治勢力が市長を支持してきた。しかし、大規模開発と博覧会、異人館の観光開発などに重点をおいて伝統的な快適な生活空間を犠牲にしてきたことに対して、誰もが内心で深い失望と絶望をいだいてきた。その無意識の傷が、地震に出会って噴出したとも言える。
 そういう人々にとって、地震への共感はこんな形をとった。
 「今まで建物が、交通が、行政が街だと思ってきた。地震で建物が壊れ、交通が途絶し、行政が停止したときに、別の街が見えてきた。はじめて口を聞いて親しくなった隣人とのつながりあい、助け合いが街の実体なのだと思った。建物や交通を復興しても、これをなくさないようにしないと、何のために地震に遇ったのかわからない」(ポートアイランドのある住人)

■地震直後のあの盛り上がりは何だったんだろう、と被災者どうしが話す時、いつも振り返る。交通信号がなくなっている間、自動車は互いに譲り合い、事故も渋滞もなかった。自分がどんな目にあっていても、まわりの人のためにできることはないかと探した。何もかも失った人ほど、手に入ったわずかの食糧や毛布をまわりと分け合おうとした。水道が途絶えて給水車に並んだ45日間、本当の豊かな生活とは何か、便利であることで何を犠牲にしてきたのかについて、人々はたくさんのことを学んだ。
 「長田区の広大な焼け跡に行くと、しんしんとからだの底から霊気にさらされるような気がする。あそこは聖なる空間だ。地震のことを記憶したい人は、建物で覆われないうちに、一度は行っておくべきだ。」(兵庫区の保育園の園長)
 「毎年1月17日からの1週間水道を止めたらどうだろう。交通信号を止めるのはちょっとやばいかも知れないから。」(灘区のタクシー運転手)
 こう言える人は「あの日々」にたくさんのことを学んだ人だった。

■家の倒れなかった人も、散乱した家の片付けに何日も何日もかかった。壊れた食器や水に濡れた本を放り投げながら、「なぜこんなにモノを持って来たのだろう」とつぶやいたたくさんの人がいた。「これもいらない、これも捨てよう」と人生の重荷の整理をした人もいた。生き延びてみたら、身ひとつでよかった。このタンスに、あの食器棚に殺されたかも知れなかったのだ。この中に本当に自分がほしくて買ったものがどれだけあったろう。避難する時に持っていきたいものは、アルバムと、わずかのもう買いにくい本やレコードと寒さを防ぐたけのもので十分だった。シンプルライフといいながらなんとよけいな「ものたち」と生きて来たのだろう。
 自分の家、自分の財産に殺されないためにどうしたらいいか。これが「防災」の根本課題ではあるまいか。

■「絶対にこわれない緊急輸送道路を」と大新聞が書いた時に、私は中国南部の農村の竹でできた家々を思いだした。公会堂までが竹でできている。大きな台風がくればひとたまりもなくなぎ倒されるのだが、数週間のうちに元通りに復元できるのだ。
 阪神大震災の年の下半期に、雲南で2回にわたってマグニチュード7・2レベルの地震があった。詳しい報告はまだないが、犠牲者がびっくりするほど少なかったと伝えられる。それは神戸の事態のオルタナティヴな例になるだろうか。フラジャイルな都市は安全なのだろうか。
 160万人の都市がまったく同じにやれるわけはない。しかしその思想を活かすことは可能なはずである。

■関東大震災のような朝鮮人虐殺は、神戸では気配もなかった。「地震の神戸市民の対応を見て対日感情は好転した」とソウルのいくつかの日本嫌いの新聞は書いた。何もかも失い、取り乱して泣く日本人の姿を始めてテレビで見た老婆は「日本人も人間だったんだねえ」と言ったとソウル電は伝えている。戦後50年にさいしてアジア諸国と和解しなおす絶好の機会を日本政府は活かせなかったが、その背後で、やっと日本人を人間と見てくれた韓国の一人の老婆がいた。地震のおかげで。

■浪費の日々を送るままアジアに差し伸べられる手をアジア人は不信の目で見てきた。アジアの貧しい農村と東京の暮らしと100倍の差があるとして、もし100倍の成長では地球の限界を越えるから10倍で済ませろというなら、日本人はどうやって10分の1に生活を切り詰める用意があるかを明らかにしてくれ、それでこそ対等の立場というものだろう、無言のうちにそう言ってきた。
 神戸市民の中から、自分たちを避難者というより「難民」とよぶ声が出てきた。5000万人に達しようとしている世界の難民と同じほどの生活レベルに落ち、同じほどの孤立を味わっている。これでやっとアジアと同じ目の高さで向き合えるのだろうか。地震は地球の限界に対応する「清貧」のひとつの道なのだろうか。

■ヨーロッパもどきの異人館や未来都市もどきの六甲アイランドに対抗して、「アジア的神戸」が新しい復興ストラテジーとして登場してもよさそうだった。街角の屋台に、ソフトハウスの自覚を持った一部のテント村に、南京街の活気に、自転車復権論に、長田区のアジアタウン構想に、7か国語で放送された未認可のミニFMに、鍼や気功が活躍した避難所の癒しに、地震の教訓からついに地場農業に乗り出そうとしている日本最大のコープに、その芽があった。

■89カ国プラス無国籍。4万5千人。これが神戸市内の定住外国人。虐殺はなかったが、公共の救援が受けられなかった人が大部分だ。国籍がないために、あるいは言葉の壁のために、さまざまな困難につきあたっている。ハローワークという笑ってしまう名前の公共職業斡旋施設に並んでいる震災失業者が3万8千人。外国人にはますます仕事がなくなっている。
 外国人被災者の救援は日本人被災者とNGOの中から起こった。そしてじきに、ただの「救援」ではなく、将来にわたる多文化共生への努力が必要なのだと気づいた。外国人だけでない、高齢者の文化、障害者の文化、365日の震災を一番かぶった社会的機弱者たちのそれぞれの文化の共生が必要だとわかってきた。
 厳しい現実はあるし、ひとつひとつ解決していかなければならない。しかしコンセプトは楽しくないといけない。
 「一緒に揺れてみませんか」
 被災者の雑誌『神戸から』のコピーである。
 国際会館がつぶれても、更に大きな国際会議場の計画が中止になっても、神戸に住む外国人や障害者により快適に暮らしてほしい、さまざまな文化が対等に学び合える場を育てたい、という意識が市民に育ってくるなら、神戸は−−20世紀までに語られて来た意味とは違う、もっと深い意味で−−「国際都市」の名に恥じない都市になるだろう。 本当に「ドアが開いた」のだろうか。雲仙、奥尻、伊豆、サハリン、雲南、ピナツボ、サンフランシスコ、ロサンゼルス……神の火を見た人々のあいだで、揺れる大地とどう共存していけるかをめぐって、もうひとつの精神回廊が出来始めたのだろうか。

1996.1.10

[日本というカラダ 「震災後の声を集める」Part 1]へ
[日本というカラダ 「震災後の声を集める」Part 2]へ

[ライブラリー「地」変動帯に生きる感性]へ