竹村真一のコメント
English

世界と自分を再発見してゆく
新たな「感性」のメディアとしてのインターネット

by 竹村真一
IWE '96テーマパビリオン"sensorium" プロデューサー


January, 1996


“インターネット”と“インナーネット”

 20世後半のパソコン革命の主題が“個人の自立と自己表現”であったとすれば、20世末の「現在」の文明史的テーマは、言うまでもなくこの「インターネット」に象徴されるような“コミュニケーション”と“ネットワーキング”ということになるでしょう。

 人と人とがつながり合うメディア。「個」を超える大きな表現と創造のマトリクス。
 そして、“世界は一つ”といったグローバリズム・統合意識とともに、民族・文化的あるいは生態学的な多様性を、私たちとこの地球にとっての何よりの「資源」として、ポジティヴに再発見していけるようなコミュニケーション構造のデザイン。

 とはいえ“コミュニケーション”や“ネットワーク”というテーマが浮上するのは、必ずしも自分の「外」へ、「世界」へといった遠心的な自己拡張の方向だけではありません。
 「他者」や「異民族」は自己自分の内側にも見出されうる。「個」を超える大きなマトリクスは、実は「私」のうちにあるかもしれない。

 自分の外側に無限にリンクがひろがってゆくと同時に、自らの内側にも複数の「私」(=内なる他者)の多層的なネットワークが見出されてゆくような“関係論的な感性”がいま必要とされている――。

 その意味で、「インターネット」(Inter-net)は「インナーネット」(Inner-net)のメタファーにほかなりません。
 そして、この「地球」の電子ネットワークは、「人間」の内的なネットワーク性を顕在化する媒体として、この地球生命系の臨界期に生み出されたのかもしれません。



ネットワークとしての「自分」

 日本語で“I(myself)”や“human being”を表わす「自分」とか「人間」といった言葉は、こうした私たちを構成している本源的、かつ両義的なネットワーク性(いわば“関係のなかの私/私のなかの関係性”)をよく表現していると言えるでしょう。

 自「分」とはあくまで、この世界のなかでのホロニックな関係構造の一部分“I as a part"?)としてしかありえず、人「間」という存在も、つねに人と人との間においてしか成立しえない。
 いや、この世界のコミュニケーション・ネットワークが、決して人間同士の「社会的」な関係で自己完結しているわけではなく、自然界の物質循環と情報交換のマトリクスに埋め込まれた「生態学的」な環を形成しているという意味では、「自分」とはいわば“自然のなかの分”といったニュアンスも含んでいると解釈すべきかもしれません。

 また、“私のなかの関係性”ということで言えば、私たちの「からだ」や「こころ」も、まさにそれ自体ホロニックなコミュニケーション・ネットワークとして存在しています。
 たとえば、私たちの身体は“環境のなかの身体”であるとともに、(私たちの体内の腸内細菌やミトコンドリアやDNAにとっては)それ自体がひとつの広大な「環境」でもあります。
 その意味で、この“環境としての身体”は決して「個」=“individual"ではなく、むしろ"dividual"(分割可能)な諸々の存在が織りなす、一つの情報生態系(ネットワーク)としての「自分」なのです。



眼にみえない生命情報のリンク

 人間の「ゲノム」(DNAの総体)のポリフォニックな組成や、「脳」と「意識」の階層構造といった面からも、「人間」という存在が、従来考えられてきたよりはるかに複雑で水面下に膨大な多様性を抱えもった氷山のようなものだと考えられるようになってきました。

 実際、人間はそのDNAプログラムが自己を成就してゆく子宮内での最初の九カ月間に、一個の受精卵のレベルから魚・両棲類・爬虫類などの段階をへて人間へと至る40億年の生命進化の全プロセスを演じなおす。
 あるいは人間のゲノムの中には、様々なウィルスと共生してきた――つまり「異物」として排除するばかりでなく、それら雑多な存在をゆるやかに統合してきた――という具体的な歴史=物語が刻印されている。
 こうした事実が象徴しているように、どうやら私たちは単純な「人間」という概念におさまりきらない大きな存在――さまざまな「他者」たちと共生関係をとり結び、その多層的なネットワークを自己の内にも抱え込んできたエコロジカルでホロニックな存在であるようです。
 「人間」は、微生物や動植物など、自然界の諸存在と切り離された存在では決してなく、むしろそれらと共通したさまざまな部分を(ハードウェア的にもソフトウェア的にも)分有する巨大な生命情報マトリクスなのです。
 多くの古代神話やトーテム信仰が語るように、私たちは他の動植物や水棲哺乳類にも通ずるような多次元的な「生命記憶」を秘め持っている、というのも、あながち無視できない考えかたです。

 ひょっとすると、そうした“内なる他者たち”は、つねに私たちの身体の境界線や「人間」としての狭い自己規定をやすやすと横断して、眼にみえない多層的なコミュニケーションのリンクを環界の諸存在にはりめぐらしているのかもしれません。
 となると、私たちが「異種間」コミュニケーションだと思っている関係も、実は隠れたレイヤーでの「同種間」ネットワークに支えられているのかもしれない――。



地球と人間の自己認識のメディア

 いずれにせよ、私たちは生命観や宇宙観、そして「人間」自身の定義やその宇宙的な意味づけが大きく変わる時代に生きています。

 生命科学や地球科学やエコロジー、異種間コミュニケーション等の分野における革命的な知見と、コンピューター・ネットワークの発達を通じての世界経験の構造変革とが、深いレベルで相乗的に絡みあっている。そのさなかで、この世界が再びワクワクするような面白さとダイナミックな多層性をもって見えてくる時代を、私たちは迎えつつあります。

 こうして見ると、“コミュニケーション”や“ネットワーク”といったテーマを単なる人間社会の「情報通信革命」や「生活/産業変革」「グローバル・ヴィレッジ化」といった次元にとどまることなく、もう少し広い文脈で捉えなおす必要がある、ということがますます明らかになってきます。

 これらのキーワードは、この世界が基本的にコミュニケーションの“ウェブ”として構成されている――さらに、人間と環境の間にもさまざまな見えないネットワークが張りめぐらされているのだという、私たち自身と世界についての新たな「気づき」と自己認識をもたらす鋳型(=メタ・コンセプト)に他ならないのです。



インターネットは「人間」だけのものではない?

 実際、人類の最大の「仕事」は“地球の自己認識”なのかもしれません。
 地球と地球に生きる様々な生命と人間自身のことをもっとよく理解すること。地球の胎動に聴き耳を立て、この世界の多様性と豊かさにもっと驚いてゆくこと――。

 人間はまだ「地球」を知らない。「人間」を知らない。
 自分のまわりの世界や自分自身の体内で、日常のありふれた風景と営みのうちに、どれだけ驚くべきプロセスが展開していることか?
 私たち「人間」と環界の植物や微生物や岩石などとの間に、眼にみえない形でどれほど複雑なコミュニケーションが日々交わされていることか?

 普段私たちが無意識に摂取している水や空気が、“日本という身体”あるいは“地球という生命体”のいかなる「記憶」を私たちに運んでいるのか。そして、その水や空気の見えない「経絡」を通じて、私たち一人ひとりが地域/地球の何処とどのように繋がっているのか?
 こうした事に私たちが日常的に気づいてゆく、新たな経験回路が必要なのです。

 そしてインターネットは単なるマスメディアや博物館/デパートのヴァーチャル化といった、「近代」の延長にすぎないレベルを超えて、こうした私たち一人ひとりの拡張され多次元化された感覚神経系――新たな“常識”としての共通感覚(common sense)――を「解発」してゆくメディアとなりうるかもしれないのです。

 もっと「地球」の声が聴こえるメディア、私たち一人ひとりが「水」や「風」や大地の「火」の経絡に(地球のからだを触診する鍼灸師のように)触れてゆくためのメディア、イルカや樹木が情報の“発信者”になるような"Inter-species-Net"(異種間インターネット!?)があってもいい――。
 その意味では、「インターネット」あるいは「インナーネット」は、本質的に人間社会の内部で(ましてや仮想的なサイバースペースで)自己完結しはしないのです。



“ポスト・グーテンベルク”時代のSENSE

 また、私たちがそうした複雑な世界に無限の「美」と「意味」を感受し、それを声や文字や図像や身体で表現してゆく営み――その“エコ・エステティック”なプロセスを様々なかたちで研ぎ澄ましてきた諸文化(あるいは個々人)の内的な「経験資源」の重要性が、インターネットというメディアを通じてあらためて浮かび上がってきます。

 一元的な進歩観では評価しきれないその固有性/多元性が、この惑星の「知性=生態系」全体の“健康”にとっていかに貴重なものであるか?
 殊に、私たちがともすれば「欠損」「無駄」「後進」「障害」等と見なしがちであったもののうちに、どれだけ“生命/文化遺伝子”情報系の「資源」としての価値が潜在していることか?

 「近代」の一元的で合理主義的な人間観は、こうした一人ひとりの(あるいは個々人の内部に潜在する)「多元性」や「多層性」を評価する尺度=SENSEを捨象してきました。
 そこで見えなくなってしまったのは、たとえば前述のような「人間」の生物学的/生態学的な多層性であり、私たちが世界を経験する感性・知性的レイヤーの多層性であり(例えば「五感」「共通感覚」の拡がりを、視覚/活字言語中心の認識構造に偏向させてきたこと)、さらにそうした価値偏向ゆえに誤って「障害」「欠損」と見なされてきた人間の根源的な身体−感覚の多様性/多形性です。

 “近代”の“工業社会”に適した「人間」の価値観と尺度が、そのまま情報文明社会に延長されうるはずもない。
 しかし現実には、いま“ポスト工業社会”“情報ネットワーク社会”という看板のもとに半ば強迫的に推進されているトレンドは、ある意味で「近代」の足枷を引きずったものが多くないでしょうか?

 例えば電子ネットワークが、確実に工業社会的な体質を変革してゆくにしても、それゆえ「誰もが“キーボード”を使えねばならない」あるいは「すべてのコミュニケーションが“キーボード”で行なわれるべきだ」と考えられるとしたら、それはグーテンベルクの銀河系の延長線上にある思考であり、人類のコミュニケーション文化における新たな「画一化」と「差別」(障害概念)を生み出すことになりはしないでしょうか?

 私たちは“技術”だけでなく“文化”“感性”の面でも、「マルチメディア文明」へと本当に離陸する準備ができているのでしょうか?



新たな世界経験の「窓」としての“sensorium”

 いま恐らく、こうした自己や世界の自然的/文化的な「多様性」と「豊かさ」に対する“SENSE”を、あらためて醸成するメディアの構築――いわば新たな世界経験の「窓」のデザインが求められています。

 環境破壊、民族問題、生老病死の文化的危機、経済の肥大化・匿名化と社会目的・人生の目的の喪失など、現代社会が抱える問題は多い――。
 この20世紀最後の(そして21世紀の通過儀礼としての)「万博」も、当然こうした問題に眼をそむけて、ひたすら楽天的な技術進歩思想の祭典に終始するわけにはいかないでしょう。
 しかし、こうした現代社会の多様な問題はいずれも、ある意味で「関係の病」=ディスコミュニケーションの問題であり、「経験」構造の根本的なリデザインなくしては解決しえないものです。
 たとえば短絡的な「環境保護」以上に重要なのは一人一人の「環境経験」の活性化・豊饒化であり、人間と環境をつなぐ多層的なリンクの存在への「気づき」であり、それを通じて知識・倫理レベルを超えた「環境意識」を深化させることなのです。
 民族紛争や世代間対立・ジェンダー(性差)差別などの社会的な諸問題も、基本的には自己の内なる他者性の再発見と相即的な課題であり、近代に成立したマスメディアの問題をも含めて、私たちの「他者経験」=コミュニケーションのありかた全体が問われていると言えるでしょう。

 “コミュニケーション”や“ネットワーク”というコンセプトを通じて、人間や地球生命系の本質を、また私たちと世界とのホロニックでフラクタルな「関係性」を再発見してゆく「感性」(“SENSE”)――。
 「この世界はこんなに多様で面白い」という新たな“地球と人間の自己認識”。

 そして、何より「インターネット」という、新たな地球と人間との関係のメタファーに他ならないメディアを、こうした“自己認識のメディア”に育ててゆくこと。
 人間が地球環境と(あるいは他者と)共生・共振してゆく新たな「関係」デザインの足場として、このグローバル・ブレイン・ネットワークを考えてゆくこと。

 このような意味で、私たちはこのテーマパビリオンの主題を、“新たな世界経験のありかた”という含意をこめて“SENSE”と設定してみたのです。◆